これは
の続きです。
病気療養にも関係するので、「もとのブログ」に転載しました。
身体は、あるがまま、収縮も膨張もしない、心理のオモチャにならない
日本ではアジア的な相互扶助を残した共同性はほとんど消え、強力な新自由主義型社会に一段と近づいています。
この結果、心的強要(すべてはアナタが選択した結果! 決めるのアナタ!)を、単純素朴に最上位に置いただけの、無節操な自己責任・自己決定論が支配し、身体を阻害(自傷)したり他傷をもたらしています。
一方、この極限は、宗教的な自爆テロであって、閉じられた信仰のみ、等身大の身体は完全に消去されています。
このような宗教は、人間にとって誤謬でしかなく無化していく未来しか考えられません。
こうして現在の問題点は
抽象できない実体である身体が阻害されていること
身体の赴くままに行動することのできる存在では無くなっていること
つまり人間は生き物としての一個人ではなくなってしまったこと
の取り戻しはどう可能なのか、よくわからないままにいること、にあります。
心は、好きなだけ収縮したり膨張したりできるとしても
身体は、いつでも、あるがまま、等身大、決して収縮したり膨張したりしません。
社会からあるべき「型」すら失われてしまえば、最後の拠りどころ、心理(思想)操作によって
抽象できない実体であるしかない身体は
有るか無いかはっきりしないほどに無視され死を招いたり
呼吸や心拍がウェアラブルに管理される運動マシーンに特化したり
心の断片(オモチャ)としてバラバラに扱われるようになります。
身体と心がどのように解放や調和に向かうものなのか、たくさんの妥協が必要なところで折り合っていくのか、まだ試行錯誤の状態にいると思えます。
ξ
人間がその戦争でどうなっていくのか、身体を欠落させた大義・正義だけの戦争論はただの妄想だと考えられます。
違う、違う、生き抜け! 逃げ切れ! と、ワタシの生活思想は云います。*1
いっけん、それと無関係に見える
愛し合う孤独な「君と僕」は、異空間にいて、決して出会えない、ただ遠ざかっていく(新海誠『ほしのこえ』(2002))という、過剰な心理劇の方が、むしろリアルに見えてしまう身体の絶望的希薄さは、何なのでしょう。
重度の脳化に過ぎない、「君と僕」は出会うこと無く愛し合っているという、身体を欠落させた「セカイ系」エンターテインメントもまた、妄想です。
さらに「君と僕」の外側は、凍り付いた動かしがたいセカイであって、そのセカイの運命など知らない、どうにもできない、(『天気の子』(2019)のように)東京など水没して構わない、ただ「君と僕」は生きていくと
2010年代に入って妄想は一段と収縮(先鋭化)しているようにみえます。*2
つまりどんどん大きな「関係性」を断つこと。
内閉性 イコールマイナーな関心、マイナーな美に収縮していくことは、わからないわけでもありませんが
そのときも消えない、他者との「関係性」への痛切な渇き、はどうしたらよいのでしょう。*3
ξ
半病人のワタシについていえば、身体の自然性にまかせ、心によって身体に負荷をかけることをひたすら避けるしか、回復や再生の糸口は無いと思い、ずっとそう書いてきました。
眠い時は身体が眠いのですよ。
だるい時は身体がだるいのですよ。
身体は勝手に赤く腫脹し、勝手に固く拘縮するのですよ。
心で何ともならないのですよ。
身体はいつも同じ大きさで有るのですよ。
身体はいつもあって消失しないのですよ。
心のように収縮も膨張もしないのですよ。
冴え冴えとした知覚・感覚も、きびきびとした反応・運動も身体がもたらしているのですよ。
心は身体がちゃんと働くように眺め続けているだけなのですよ。
(4/4に続きます)