ξ
個人とは、具体的には、心と身体という二重性によって成立する。
これほど当然なことはない。
しかし、この国では、これはけして当然ではない。
江戸つまり近世以降の日本では、「個」は心によってのみ、成立することになった。
そこでは中世的身体が排除されたからである。・・・
心によって成立する個は、さらに社会的に成立する個と、自己が想定する個とに分かれる。
社会的に成立する個とは、たとえば封建的諸身分であり、現代であれば、名刺の肩書きにその命脈を保つものである。・・・
はじめに述べたように、個は心と身体という二重性からなる。
にもかかわらず、その身体が江戸期では心に対して従となり、しだいに消し去られる。・・・
その結果、「心」はいわば自己増殖、肥大し、次いで二つの自己に分裂する。
明治以降では、その一方すなわち自己的個が、文学の中で社会的個を消し去ろうとする。
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ξ
ワタシたちは、社会と自分(個人)というように2つに分けることはよく慣れているが、心が「二つの自己」からなり、社会的個と自己的個に分かれていることは重要な指摘に思えます。
ワタシたちが「かけがえのない私」、「本当の私」、「私らしく生きる」などと言うとき、自己的個を指しているのは明らかです。
また、近代的な個人あるいは自己を確立すると言うとき、日本では明治以降一貫して自己的個のことを指してきました。
しかし社会的個は決して否定できるものではありません。
それは人種的に同一に見える日本人に限定しても、身分、家柄、家族構成、資産・収入、職業的専門性、所属組織、地位、役職、資格、授与勲章、その他「肩書き」としてあらわされるものです。
この社会的個は、身体を持たない社会と、身体と切り離せない個人の中間にあって、社会と個人の関係性を表現するものといえます。
虫けら一匹生みだせない(フィクションである)社会と、生命の誕生が可能な個人とを結ぶものが社会的個であると考えられます。
もし勘違いして、あるいは気取って、個人から身体を切り離した「私」の心=自己的個が、「本当の私」、「かけがえのない私」などと主張しても、いったい誰に理解できるでしょう。
社会との関係性が見当たらなければ単に人ごと、理解は不可能です。
心のなかは他者にはわからないし、単なる思い込みや空想、まったく孤立した心、閉ざされた心、そのような心は共有不可能といえます。
ξ
むしろ自己的個に拘ってみることに何か価値があるのか、と問いを立てたほうが良いくらいです。
本当は、日本人が明治以降も、徹底的にこだわってきたのは、社会的個の獲得であったように思います。
汗水たらして励んできたのは、近世の封建制崩壊後に失われた社会的個のためだったともいえます。
和魂洋才と言ったとき、和魂のなかにひっそりと隠したものは自己的個であり、表立った洋才のなかに開放(立身出世)したのは社会的個であったように思います。
なぜ社会的個だけではいけないのか。
まるで社会的個からこぼれ落ちた大切なもののように自己的個に拘るのはなぜなのか。
仕舞っておけばよいのに。
そんなものが実際に可能であるかと問われることもなく、「本当の私とは」、「私らしく生きる」など、自分探しを始めてしまうのはなぜなのか。
社会的個から離れても、それは「リ・クリエーション」(休養)に過ぎないと考えればよいのに、再び戻ろうとする代わりに、なぜ「本当の私」など探し始めてしまうのか。
何より、あなたが自己的個をこの上なく大切にしているのなら、なぜあなたは孤独感(寂しさ)でいっぱいなのか。
本当は、あなたには空っぽの社会的個しかないのですよ、と言われそうな恐怖が、しきりに自己的個にこだわる理由になってはいないか。*1
ξ
つまり
● 本来、生き物として統一されていたはずの個人は、外的環境=「セカイ」に対し、常に自己をバラバラに切り分けて意識し活動する(時には匿名で)ほかなくなった。
● ひとことで言えば、人として生きることの、どこか不統一なわけのわからない孤独(感)が絶えず湧き上がり、それに苛まれ、現在に至っている。*2
「型」とか「肩書き」と呼ばれる社会的個が圧倒的に重視される近世・近代に身体は排除されました。
「型」とか「肩書き」の世界に、身体は記号として収められていくものとなり自然ではなくなりました。
その社会的個に対抗するかのように見えた「大切な」自己的個は、同じくフィクション=心の範疇に居たままで
今も、その身体は心によってコントロールされるべき機械(アンドロイド)であることが理想とされているようです。*3